ひさめ ふるふる

pontaponta2006-02-21

一つ目の仕事も終わり、掛け持ちのもう一つの職場へと移動しようと強張った肩をほぐしながら、掃除の行き届かない窓を見る。外は、淡々と降る雨であった。いつも雨傘を放ったままの傘置きを眺める。東京もそこそこに雨が降るものだと思いながら。
 細く、気のせいかゆっくりと降る雨だ。イヤホンを耳孔に押し込み、MDプレイヤーのスウィッチをオンにする。雫が舞うためのBGM。くるりの「ばらの花」
  雨降りの朝で今日も会えないや
  なんとなく でも少し ほっとして
  飲み干した ジンジャーエール
  気が抜けて         
 雨が降っていなくても、会えないものは会えない。会いたい人に会えない。自分を偽って、着飾っても結局気の抜けたジンジャーエールなんだな。でも、気が抜けてもジンジャーエールジンジャーエールだってことのほうが大事だ。そんなことを考えながら駅への道を、急がず進む。アマガエルのように鮮やか緑色の缶ジュースが売っている自動販売機を探しながら。

 地下鉄の風はいつも冷たい。でも、今日はいつもよりももっと冷たくて、うっすらと湿り気を帯びているせいか身体にまとわりつく。ダウンジャケットのジッパーを上までしっかりと閉め、悴(かじか)んだ指をほぐす。折りたたんだばかりの傘からは、雨水が滴り、イエローの点字床の上に水溜りを作ってしまう。
 座席は全て埋まっていて、僕はドアの傍の手摺(てすり)に傘を引っ掛け、ドアにもたれかかった。僕が降りる駅まで、こちら側のドアは開かない。軽く一定の揺れと暖房は、寝不足の僕の思考力を奪っていく。麻痺した脳内の感覚と、薄ぼんやりとした視界。そう、こんな時だ、何もかもがどうでもよくなるのは。大して面白くもない仕事や、好きなのかもしれないあの子のことや、僕の遠い夢や・・・
 人が一度に消える駅。座席はぽっかりと空いているが、座る気になれない。あと、一駅だということもあるけれど、とにかく動きたくない。車内の床を眺める。そこにはいくつもの水溜りがあった。それは、まるで未知の生命体のようだった。時おり、天井のライトを反射させ、揺らめく。見つめ続けると、時々僕の頭をノックする偏頭痛の足音が聞こえ始めた。
 目の付け根からこめかみへ、そのまま頭の中を巡り続ける鈍い痛み。涙が薄っすらと滲(にじ)む。目を逸らせばいいのに。ボクが言う。でも、僕はそれを凝視し続ける。何故だかわからないけれど、その水溜りは、液状のアカシックレコードのように思えたのだった。

 いつの間にか着いた駅。階段を上りきると、強く冷たい風が頬をなぶる。僕の火照った顔は無感情に、その冷気の触手を受け止めた。そして、傘も差さずに歩き始めてみた。手の甲、鼻の頭、耳。その雫は確かに冷たい。氷雨だ。美しくも残酷に、僕たちを凍らせる、氷雨
 天(そら)を見上げると、糸のように細い銀色の針が僕へと降り注いでいた。痛みは感じても、抜くことのできない無数の針。
  ひさめ ふるふる
  ふるふる ふるえて
  しろの ひかり ふれて まざるる
  なみだ ほろほろ
  するする ながれて
  くろの かたまり とかし きえさる
 小さい頃、好きで諳(そら)んじていた詩だ。名もない詩人の詩だと、じいちゃんが教えてくれたのだ。今日の氷雨が、思い出させてくれた記憶の片隅にあった言の葉。
 いつのまにか偏頭痛は消え、体の外側にも内側にも隙間なく刺さった針の傷みがそこにあった。不思議と心地がいい。

 すくんでいるかのような傘を広げ、横断歩道を渡る。白線ばかり踏みながら、明日はいい日でありますようにと願う。道を渡りきったところにある自動販売機には、緑色の缶がある。ジンジャーエールを買って飲む。こんな味だったっけなと、軽く笑った。